本記事は「インプット奴隷合宿」という言葉の発生源である「ゆる言語学ラジオ」、またそれに関連するいずれのファンコミュニティーとも直接的な相互関係を持ちません。予めご理解頂いた上で記事をお読みください。


この記事について

読書感想文です。「インプット奴隷合宿 in 豊富温泉」の「豊富温泉」の部分については自分の気力があったら別の記事で書きます。そっちも面白い話が色々あるので。

インプット奴隷合宿ってなに

注意書きにもありますが、ゆる言語学ラジオというポッドキャストで出てきた概念です。温泉宿に泊まって、観光もせずに本を読み、温泉に入るという合宿です。とはいえ、今回はちょっと観光もしたので完全にインプット奴隷合宿とはいえないのですが、2泊3日(前泊合わせると3泊4日)の2日目(3日目)はかなりインプットの奴隷として生きていたと思います。朝に風呂に入って、朝食を食べてそこから本を読み、18時頃に晩飯と風呂という感じでした。この話も「インプット奴隷合宿 in 豊富温泉」の「豊富温泉」の部分を担当する別の記事で書こうと思います。

読んだ本

大体16時間くらいが本を読んでいる時間でした。評論を3本。マンガを1冊読みました。時間を考えるともうちょっと読めたと思います。

読んだ本は以下のとおりです。(Amazonの販売ページに飛びます; アフィリエイトリンクではありません)

以下、それぞれの本の感想をサクッと書いていきます。

「好き」を言語化する技術

ほぼ半年〜1年前くらいでしょうか。この本がめちゃくちゃバズっていたのを覚えています。当時からNot for meっぽい本だなと思ってはいましたが、一応話題を追っておくかと思って買って、最初の50ページで読むのをやめた本です。Kindleのライブラリを開くたびに「そういえばこいつ挫折したな…」と思っていたので、今回の合宿で読み切ることにしました。

結論から言うと結局Not for meだったわけですが、「この本は的はずれなことを言っている!」的な理由ではなくて、単に自分が対象読者でなかったというだけです。この本の中で「相手の知識に応じて、話し始めや話の途中に注釈を入れるようにしましょう」という話がありましたが、この本の中には自分が知らないSNSの単語がいくつかありました。そういう単語には注釈が添えられていなかったので、注釈がなくとも理解できる人がこの本の対象読者となるわけですが、自分はその対象からあぶれていることを自覚したというわけです。

本の内容についてですが、文章表現入門としてはそこそこいいと思います。よく版権キャラクターが中学の理科や数学を解説する本が出版されていますが、その系統と思って読むといいかもしれません。オタクと学ぶ感想文入門みたいな。

ただ、読者層がよくわからなかったという印象があります。

言語化とは、「どこが」どうだったのかを、細分化してそれぞれを言葉にしていく作業なのです。

ということで、基本的には自分の過去の経験などと照らし合わせながら上記の作業を行っていくことで感想が書けるようになるという話だったのですが、その後に

十代のときの感動が鮮やかなのは、おそらく言語化されていない感情がいっぱいあって、未知のものが多いがゆえに「驚き」の感動をたくさん抱くことができるからでしょう。

という話も登場しており、読者層としてはある程度社会人経験を積んだ、まあ新卒3, 4年目くらいの人を対象にしているのかな?と思いました。大体20代中盤〜後半より上でしょうか。なんというか、学生のうちってそんなに感動することありますか?もしかしたらこれは自分がまともに学生をしていなかったということなのかもしれませんが、自分の記憶の中に感動とかってあんまりありません。

あと、たまに出てくる図表がめちゃくちゃ雑なのはどうにかしてほしいと思います。Kindle版93ページ、相手と自分の情報格差を埋めることを説明した図に関しては図を見るより文章を見たほうが明らかで、ないほうが良い図だと思います。

ヴィクトリア朝時代のインターネット

評論と言うよりは歴史書と言う感じの本です。電信の繁栄から電話/インターネットにその役割を取って代わられるまでの歴史を記した本で、実用的な電信の誕生、情報の速達化、発生した問題、思いがけないメリットなどなど、多くの事柄について記されています。電信の歴史には多くの電磁気学の偉人たちが関わっており、ヘンリー、ホイートストン、エジソン、トムソン(ケルヴィン卿)、ベル、モールスなど、一度は聞いたことがあるような名前が続々と登場するのを見ると、電信の歴史は単に情報通信の歴史だけではなく、電磁気学や送電の技術発展などにも関わっているのだなというのを実感できます。実際、大西洋を横断する海底ケーブルを敷設する際に、電気的な事情を正しく理解していないがために、多額の金を浪費したということが語られたりしています。

これらの話は、現代のインターネットの歴史を知る私達にとってはどこかで聞いたことがあるようなないような歴史が多く、時代が移り変わっても歴史は繰り返すことを確認できる本と言えるでしょう。

特に面白いと思った点は、当時の電信技術者 (電信オペレーター) が現代のプログラマと似たような立ち位置にいたという事実です。いくつかのパートでは当時のオペレーターの生き様が紹介されており、その中で、実力主義的で、ある意味ではもっともストレスフルでもっとも自由気ままな電信オペレーターの仕事について触れられています。このような記述は現代のプログラマの働き方や、仕事への向き合い方に通ずるところがあるように思いました。情報が集まる大都市圏では電信オペレーターはとんでもない激務をこなしていたようですが、それでも多くの人が出版された入門書や師匠などの助けを借りて電信オペレーターを目指し、大都市の通信局 (電信を行う専用施設) を目指したということ。そして、その数多くが散っていったことが書かれています。これは2, 3年前のプログラマという職業を取り巻く様子によく似ています。

そういった意味でも、この本はただの歴史書というだけではなく、私達がインターネットと共に歩んだ、そしてこれから歩む歴史について非常に示唆的なものと言えるでしょう。

良い本だったと思います。単純に面白いので、ぺらぺらめくりながら読むのが良いと思います。

私とは何か 「個人」から「分人」へ

「自分とは何者なのか」という問題には非常に多くの人間が頭を悩ませています。筆者はこの問題に対して、自身の小説の中で熟成させた「分人 (dividual)」という考え方を提案しています。少し複雑な考え方のように思うので、自分がどこまでこの分人という考えを要約できるか不安ですが、一旦書いてみることにします。(あまり信用しないでほしいです)

まず、個人 (individual) とは、分人 (dividual) の集合体のことを言うとしています。一人は関わる人間や周辺環境によっていくつもの分人を無意識に使い分けているといいます。この無意識に使い分けているという点がポイントで、別に本人はキャラを演じているわけではなく、相手とのコミュニケーションを成立させるために、二者、もしくは相手が複数人いるかもしれないですが、とにかくコミュニケーションを行いやすいように、分人を使い分けているというのです。分人とは一種の人格のようなもので、喋り方や雰囲気などが含まれます。上司/先輩の前でのあなたと友人の前のあなたはきっと違う分人であると思います。友人のなかでも、高校の友人と中学の友人が知っているあなたは別の分人で、別人のようかもしれません。しかし、それはどれも「本当のあなた」で、あなたが何者であるかはあなたが今置かれている環境によって用意に変わりうる、変動性を持ったものである。と。

先程も書いたとおり、この要約が筆者の考えを過不足なく投影しているとは全く思わないので、気になった方は本を読んでほしいと思います。140ページくらいの本なので読むのは思ったよりも楽だと思います。

さて、この本の主張についてですが、自分の立場からは概ね認めるが、細かい部分には反論ありという感じです。この本の主張のように、ある人の人格はその人の周辺環境や人との関わりによって容易に変化するものだと思っています。一方で、個人とは分人すべての集合であるという主張には意義を唱えたいと思います。この本の中には自分一人の分人が存在していません (読み違え、読み飛ばしなどあれば教えてほしいです)。本の中では「ある人に何かを言われたあとにそのことについて考えている」という状況では「ある人と一緒にいるときの分人」がものを考えている、したがって、その考えは「ある人」と一緒に生み出されたものと言っても良い (その考えに至るまでには「その人」が半分関わっている) ということが言われているのですが、真に自分一人でなにかに向き合っているときの分人については言及されていません。人間は真にある事柄を一人で発見できないのでしょうか?

そんなことはないはずです。例として適切かは微妙かもしれないですが、「モンハン持ち」というのはなぜか熟練者が先人とのコミュニケーションを経ずともなんども再発見されてきた例です。このように、他人とのコミュニケーションに依存せずとも最大公約数的に、もしくは局所解的に一つの事柄にたどり着くという事例は他にも存在するように思えます。では、この「発明」や「発想」はどの分人に属するのでしょうか?
この問題は非常に難しいものです。なぜなら、これまでの人生の何が影響してその発明や発想にたどり着いたかが明確でないからです。

分人という単位は、人とのコミュニケーションが圧倒的に増加し、多様化した現代において広く受け入れられるような考えに思えますが、人間の思考や感情を分人という単位に帰属させるにはいくぶん小さすぎる単位かと思います。個人が分人すべての集合であるというのなら、その中間があってもおかしくないのではないかと思います。数学の言葉を借りることにすると、分人族というのが良いでしょうか。

とはいえ、分人というのは非常におもしろいアプローチであったと思います。少し前になにかのネット記事で見たときにAmazonの欲しい物リストにいれた本だったのですが、読んでよかったと思います。

上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花 (1巻)

すこし真面目な話をしたので別の話をします。というか、この本も実際に息抜きに読んだものでした。実は読んだ順番が先程の『私とはなにか「個人」から「分人」へ』と入れ替わっていて、ヴィクトリア朝時代のインターネット→これ→私とはなにか、になっています。

確か百合ナビかなにかでこの本を見かけて欲しい物リストに入れておいた記憶があるのですがめっちゃ良かったです。

「私 寮長の舌が欲しいな」←まじで何?

さて、このマンガはめっちゃ酒を飲むマンガなんですが、酒を飲んだときの初見の感想がめちゃくちゃ上手いなと思いました。水のような日本酒を飲んだときの感想とか、確かに自分が初めてそういう日本酒を飲んだときの感想そのものだったので「わかるなぁ」という感じでした。ちなみに自分が最初に飲んだ日本酒は喉を焼かれるやつだったのでしばらく日本酒には苦手意識がありました。にしては結構居酒屋で小徳利とか飲んでましたけどね。また、飲んだことのないものについても「あー多分こんな感じかなぁ」という想像がつきやすかったのが良かったです。例えばアブサンを飲むシーンでは「歯磨き粉みたいな味」と言われていますが、同じく歯磨き粉と似たような味がするお酒としてはイエーガーマイスターなどが挙げられますよね。自分はアブサンは飲んだことなかったですが、イエーガーマイスターは飲んだことがあったのでなんとなくそんな味のイメージをしながら読んでいました。このような、様々な酒を経験した人が書く表現や語彙はかなりストレートに伝わってくるものがあるなと思いました。これ「好き」を言語化する技術でやったところだな。

同行者の話

たまーにこのブログに登場する Jugesuke と行きました。

なんかめっちゃ重そうな本を読んでてヤバかったです。

全体を終えて

やっぱたまに全ての記憶を失って宿に放り込まれて本を読まされる機会が必要なんですよという気持ちになりました。日本人の平均よりかは文字情報を読んでいる方だと思いますが、それでも積読だらけです。それこそ「好き」を言語化する技術とかそうですが、一回挫折した本を読むという機会もなかなかないですし、こういう機会に挫折した本を読むのも良いかなと思いました。
実は今年は卒業研究というものをやらないといけないらしくて、読めたら興味分野の論文でも読むかと思っていたのですが、そっちの方は全然読めなくてちょっと残念です。最近ならChatGPTに要約させてアブストや今クルージョンをいい感じにさらう既存の手法と合わせて結構いい感じに論文読めそうだなという実感があったのでそれのお試しもしたかったんですが…

全体的にはよかったので、またやりたいですね。

8日から6, 7月搭乗分のJALのセールも始まりますし、6, 7, 8月くらいになんかできないかなぁと考えているのですが、興味ある方いれば声かけてほしいです。次やるなら帯広とかの道東がいいかなぁなんて考えてます。夏に帯広の豚丼とか釧路のスパカツ食いたいだろ。2, 3回くらい釧路行ってるのに毎回スパカツ食い損ねてるし。


こんなにおばあちゃん家なのに照明はちゃんとLED化されてるのおもろくないですか?まあおばあちゃん家って知らないうちにテレビとか新しくなってるしな