結局、人間は自分が歩んできた道を肯定する以外に生きるすべがない。
2024年末のことだが、高校1年生に対して進路講話的なことをした。こんなフラフラほっつき歩いている人間に進路講話なんてできるのかと思いはしたが、かなり恩のある人に頼まれたので断るのもアレだと思って、二つ返事で了承した。
一番困ったのは、「『高校生のうちにやっておくといいと思うこと』を話してほしい」と言われたこと。当たり前の話だが、高校一年生なんていうのは斜に構えているので、「〇〇をしておくといいよ!」と言われたことについてマトモに覚えているわけもないし、本当にそれをやる人間なんてのはほぼ100%存在しない。そういうわけで、こういう進路講話で話をする人は「〇〇の科目はガチっておくといい」とか「〇〇の資格は取っておいたほうがいい」みたいな話に落ち着くわけだが、そもそも自分が話をした高校は自分が卒業した高校ではないためカリキュラムもよくわからないので前者の話はできない。じゃあ後者はどうかというと、「〇〇の資格は取っておいたほうがいいぞ!」と話している人間で本当にその資格じゃなければいけなかった人を見たことがないので自分はそういう話をする人をあまり信用していない。
じゃあ仮に、今の自分が過去の自分にあって話をできるとするなら何を話すか、と考えると、別に何も思いつかない。そりゃ、「お前は今後一生自分に学がないことをコンプレックスに生き続けるから、勉強しておいたほうがいいぞ」とか言うことはあるが、言ったところで当時の自分が勉強するなんて思えない。そもそも高校1年くらいの自分は世の中についてほぼ全てを諦めていたので、「まあどうせ今後の人生なんてどっかのブラックと言われる工場でライン工として働いたりして誰とも結婚せずにそのまま死んでいくんだろうな」と思っていたわけで、今大学生として生きていることがそもそも想定外なのだ。
そもそも自分は自分が生きてきた道しか知らないのだから、あえてその道から逸れるようなアドバイスはできない。結局人間には適性があって、例えば「小学校の頃から英語やってたらガチ強になれるだろうから英語やっとけってアドバイスするか」と思って過去の自分を英会話スクールに通わせることに成功したとして、自分が実は勉強でカバーできないほど絶望的に英会話への適性、まあ多分この場合は人間との会話への適性になるか、がなかったとしたら、それは明らかに間違った道と言えるわけだ。当の本人はめちゃくちゃ苦しいだろうし。
努力すれば何にでもなれるというのは戯言で、大抵の場合ある人間がたどり着ける場所には上限がある。もちろんライフステージによって天井は上下するし、努力によってその天井を押し上げることはできるが、まあ話が楽なので上限が大体固定されたものだと思ってほしい。そう考えた時に、自分がいま上限からどれだけ離れているのかという話になる。単にこれが水銀体温計のようなラインが上下するゲージで測れるものだとすれば、天井から液面までの距離を考えれば良い。当然この距離が小さければ小さいほど良いとは思うが、その距離を自分で測ることは不可能である。そう考えると、今の自分が天井からどれだけ離れた場所にいるのかというのは難しい問題である。仮に今自分が天井に近いところにいるとして、過去の自分にしたアドバイスが原因で天井から一気に遠ざかるなんてことになったら目も当てられない。
…そういうわけで、これだけはやっておけ!みたいな話をするのも違うなと思って、こういう場ではあまり好まれない抽象的な「小さな疑問を深堀りしていくこと」ということを話した。プログラミングがトライアンドエラーの積み重ねであるように、学習というものもトライアンドエラーの積み重ねであると考えている。統一理論というものが非常に細かなコーナーケースまでカバーするものであるのに対し、通常の人間の思考はコーナーケースをカバーしない。だからこそ、「これで〇〇完全に理解しただろ」と思ったとしても、どこかにはまだ自分の知らない要素があって、それを見つけたらそれを掘ってみて、常に「これで〇〇完全に理解しただろ」と思える状態を目指していこうということである。
自分にアドバイスをすることはないが、言いたいことはあって、その時の自分を精一杯褒めてやりたいとは思うのだ。人から褒められるということは非常に難しいことで、自分くらいは過去の自分を褒めてやりたいと思うのだ。自分が高校を卒業するまでに人から褒められた経験なんて片手に収まるだろうしな1。
活動的な中学生、高校生を見ると、ちゃんと彼らは自分を褒めてくれるコミニュティに身を置いていて、なおかつ褒めをちゃんと正面から受け取っていて、つまり、おだてに対してちゃんとおだれられていて、立ち回りがうまいなと思う。と同時に、結局誰かから自分のやっていることを認められないと人間は動けないのだろうなとも思った。褒められを燃やすことで次の褒められを得ようとするのは、努力に対する燃料の燃焼効率が良い。自分がプログラムをまともに書き始めたのは高校生の頃だけれども、その頃に自分が何を燃やしてプログラムを書いていたのかもうわからない。おそらく自閉症的なこだわりだったと思うのだけれども、もはや何を燃やしたかわからないほどに燃料を燃やし尽くしてしまったのだろう。大学3年の今、褒められを燃料にしようと思っても、過去の褒められの経験がほぼ無いのでいつからか褒めの裏の意図を探るようになってしまった。やっぱりこうはなりたくなかったので、俺は過去の自分を精一杯褒めようと思う。あとは過去の自分がこの意図に気づかないことを願うばかりである。
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多分これは嘘で、両手くらいにはあると思うのだけれども、僕のことを褒めてくれた可能性がある人間は僕の嫌いな人間だった可能性が高いので忘れていると思う。 ↩